2007年01月16日 (火)
1890年に串本町樫野沖で沈んだトルコの木造軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げに向け、トルコの研究者が9日、海底調査を始めた。遺品が確認されれば、来年から本格的に引き揚げる。調査団リーダー、トルコの民間研究機関「トルコ海底考古学研究所」のトゥファン・トゥランル所長(54)は「乗組員を助けた日本人の心をよみがえらせたい」と話している。
1月17日AGARA紀伊民放より抜粋
2002年 6月18日
日韓ワールドカップ 決勝トーナメント1回戦
仙台・宮城スタジアム
日本代表0ー1トルコ代表
12#ユミト・ダバラ
この戦いで日本は敗れた。しかしこの決戦の舞台で日本トルコ両国を応援するたくさんのトルコ人がいたのを覚えているだろうか。
そしてこの大会で3位に躍進したトルコ代表を最後まで心から応援した数多くの日本人サポーターがいたことも。
日本とトルコ この2国間に宿る深い絆はたしかに存在した。
それは120年の歳月を経て次世代に語り継がれたものであった。
1890年(明治23年)
オスマン帝国(後のトルコ共和国)皇帝ハミッド2世が日本に特使を派遣した。
近い将来、日本と修好条約を結ぶためだった。
特使と乗組員を乗せた木造軍艦エルトゥールル号は、一年という長い月日を費やし、西洋から東洋へはるばる渡航した。
その帰路、熊野灘の強烈な暴風雨に遭ってしまう。
不運にも、和歌山県串本町樫野沖合で座礁。エルトゥールル号は遭難した。
特使を含む518名は死亡したが、69名は、地元・大島村の村民による手厚い救護により尊い命が救われた。
この時の大島村の人たちは、度重なる台風によって漁ができなかった。
そのため自分達の明日の食料さえ底につく状況にあったのだ。
そんな状況だったにもかかわらず、あるだけの食料をかき集めて介護した。
非常時のために飼っていた鶏を、そして最後に残った一匹の鶏までも、トルコ人の口に合うように調理し食べさせたのだった。
そして荒波で服をはがされたトルコ人達に、ありったけの衣料をかきあつめた。
西洋の大柄男が小さな着物を着た姿は実にチンチクリンな格好だったため、周囲につたない笑(えみ)をもたらしたという。
また、遭難者の遺体を必死で引き上げ、丁重に葬ったのだった。
このことは和歌山県知事から明治天皇に伝えられ、天皇の命によって軍艦2隻で生存者をトルコに送り届けることになった。
そしてオスマン帝国は、生存者の救助や遺体の収容に献身的に力を尽くしてくれた大島村の人たちに多大なる感謝の気持ちを伝えたという。
一方、日本では新聞社の呼びかけで義捐金が集められ、犠牲者の遺族に送られた。
そんな中、一人の青年が個人で募金を始めた。
後にトルコの歴史に残るひとりの若き日本男児 山田寅次郎である。
彼はこう言ったそうだ。
「近い将来に日本と修好条約を結ぶべく、アジア大陸の西端よりはるばる、1年もかけて来日してよしみを結びながら、不運にも熊野灘の暴風雨にのまれし心情を思えば、胸張り裂ける思いなり。同じアジアの民として、犠牲者たりし人々の心情、いかばかりなりや」
山田は旧沼田藩の家老の子として1866年(慶応2年)に江戸で生まれる。小学校をおえると英語、ドイツ語、フランス語などを学び、16歳で
茶道「宗偏流」の家元、山田家の嫡子になった。
そして山田は全国を渡り歩いて得た義捐金をもって単身イスタンブールへ旅立つ。
現地で熱烈に歓迎される。
外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝ハミド二世に拝掲する。
山田家伝来の鎧兜と太刀を献上した。
そこでオスマン帝国の高官は山田に、思いがけない要望をした。
この国を背負って発つ青年士官たちに、日本語と日本の精神や文化について教えて頂きたいということだった。
山田は友好親善のためトルコに留まった。
彼の教え子に、後にトルコ共和国初代大統領に就任したケマル パシャ氏がいたのは有名な話である。
それから95年後
1985年 イランの首都・テヘラン
イラン、イラク両国の複雑な民族対立とともに、石油輸出に関連した利権をめぐって勃発したイラン・イラク戦争から5年が経過していた。
長期化したこの紛争に、イラク政権を掌握し独裁を行っていたサダム・フセインがこのように世界に発信した。
「3月20日午後2時(日本時間)」をタイムリミットとして、この期限以降にテヘラン上空を飛ぶ航空機は、“軍用機であろうと民間航空機であろうと、いかなる国の機体であろうと、すべて撃墜する」
テヘランには約1000名の日本人が在住していた。おもにエンジニアや商社関係の家族などである。
この報道を受けて国外に脱出した人たちもいたが、タイムリミットを目前に約300人もの日本人が空港にかけ込んできた。
しかしここで予想外の事態が発生する。
ドイツやイタリア人は自国の航空会社による臨時便によって次々に退去していくなか215名の日本人が空港の中でパニックに陥っていた。
日本からは救援の見通しがつかないという。
このころ政府は救援策に戸惑っており、外務省は民間航空会社へ緊急に救援機の派遣を要請したが、当時イランと日本には定期便がなかったことに加え、帰路の安全が保障されていないことを理由に離陸できないという。
いつまでたってもラチがあかない、刻々と迫るタイムリミット。
そこに2機のトルコ航空機が到着した。日本人215名全員を乗せイランを飛び立った。
タイムリミットまでわずか1時間15分前であった。
なぜトルコの航空機が来てくれたのか日本政府もマスコミも知らなかった。
その当時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏はこのように語った。
「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
エルトゥールル号遭難事件から117年
日本とトルコ その友好関係の背景には、技術面、経済面、トルコ北部大震災の救助活動など多岐にわたって民間レベルにおいて惜しみなく協力してきた歴史があり、一朝一夕で築きあげられたものではない。
エルトゥールル号遭難事件は日ト交流の礎とされ、5年おきにエルトゥールル号遭難追悼式典を開催している。
今年度から、日本の小中学校の教科書にもこの史実が取り上げられている。
もてなしとそつらえの文化を持つ国・日本
黒海と地中海に面した熱き心を持つ国・トルコ
二つの美しき文化が再びリンクしたとき
友好関係から友情関係にかわる日はすぐそばにある。
この日は天気が良いので、赤穂御崎(兵庫)に向かいます。岡山県とおよそ県境に位置します。
青く澄んだ瀬戸内海を左手に、くねくねとした坂道が延々と続きます。おっと、危ねぇ・・
数々の苦境を乗り越え!?絶好のスポット発見!山の頂上まで来てしまいました。 夕日がなかなか綺麗で、神が君臨しそうな光景でした。潮風に吹かれて心地よいです。
ホカホカの缶コーヒー 120円
疲れを癒やす焼きプリン 100円
そこの彼方とすごす貴重な時間 プライスレス
ペシッヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )アホか!
ご利用は計画的に(笑)
2006年04月19日 (水)
こんばんわ!本日のお茶漬け担当はダイビッツ、キオラ、野菜スパ天井、チネリです







DEAR パーガル 





HAPPY BIRTHDAY〜

4月19日、それは君の誕生日

4月って、色んなことが始まったり、変わったり、忙しなく過ぎてしまう頃ですね。
俺らは大学から7年来の友達だけど、今までちゃんと誕生日を祝えてなかったように思う。
いつかは、今度こそは、と思いながら。
だから今度は君の誕生日を祝わせてもらうよ。
このお茶ラモの場を借りて。。。
<友人からの祝辞>
ダイビッツより>>
DEAR パーガル
なかなかみんなで集まることもできないから、この場を借りて祝わせてもらうよ。
HAPPY BIRTHDAY PARGAL!!
乾杯! 今、君は人生の大きな大きな舞台に立ち、遙か長い道のりを歩き始めた君に‥幸せ〜‥あぁ〜…あぁ〜れぇ〜〜!
今年もまた集合したいよな!
キオラより>>
誕生日おめでとう!!
いつも気が付けば、君の誕生日は過ぎ去っていたね。。
色んな面でパーガルにはお世話になってます!俺がNZに旅立つ時、俺の背中を男らしく押してくれた時の感謝の念は忘れません。 何年か前に、誕生日でパーガルからもらった「釈お酌」忘れません!
野菜スパ天井より>>
え〜つとつと、お誕生日お、お、おめでとうでごわす!
あなたと知り合ってもう4年という月日が経ったね。おじぃちゃん、プレジデント、シカマさん、キヨシ、
みんなと過ごした時間はスゴい貴重なひと時だった、またあの時間に戻れればいいなって思うわ。みんなでお魚捕まえに、ワッサー!
とりあえずおめでとうです!!
ブログってこんなんでええのかな?ようわからんけどとりあえず終わります。
チネリより>>
誕生日おめでとう!
一歩一歩大人になっていきますね。
そろそろ目標を持って自分の目指すカッコいい男になってください
最後にもう一度みんなを代表して…
誕生日おめでとう これからもよろしく!!
急なコメント要請に応じてくれた方々に感謝します。なお、間に合わなかった方のコメントは後でまた掲載していきます!
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